だんだんと自分の心うちが顕在化し、当面の課題が出来ました。
とにかく、局長の死を真正面からぶつかって受け入れる。これが課題。
お外のことを考えるのはその後。
というか、それが課題だ!と思ってる今だからなのかもしれないけど、前に書いた「局長がいない新選組!は新選組!なのか」とか「スピリットの継承」といったお外のことは、ちょっとどうでもいい…というか、一旦停止でお願いしますというか、まず自分がそれを考えたり言えたりする心境にもっていけてないのが分かった。
新選組!と局長は切り離して考えた方がいいような気がしてきた。
例えば、「局長のいない世界なんて意味がない」って言葉があったとする。
この言葉、今の自分の正直な気持ちを表している。ホントに、本気で、局長のいない世界を思うだけでグッと心臓を掴まれたようになる。固いはずの涙腺がゆるむ。
けれど、これに連動させて「局長のいない世界の続編には意味がない」といった論理に達せられると困る。むちゃくちゃ困る。
だって新選組!好きだもん。
自分、局長が好きだから新選組!が好きなんじゃないもん。
もちろん局長に関しては、新選組!が好きだから局長も好きってレベルじゃないですが。
ふたつを天秤ばかりにのっけて、どっちが重い?って問題じゃないんですよ。
どちらが上位にあるか決めるものじゃなかったんですよ。
わたしは新選組!と局長が好きなんですよ。
もちろん、作品 - 登場人物という、主 - 従の関係はありますが、それは概念の話であって、これによって感情が制御されるわけではない。…というのが、やっと今分かったばかりです…。
すでに自分の中での局長の存在は、作品という枠を越え、一人の人間として住まい、主張している。考えてくうち、自分の局長の死のかなしさというのは、「大好きな作品の、一番好きな登場人物の死」でなく、ただ単に「好きな人の死」であることがわかった。
もしかしたら、「好きなミュージシャンが亡くなったファンの気持ち」の方に近いのかもしれない。だって崇拝(この言葉にまとわりついた悪しきイメージが怖いけれど、この言葉以外見つからない)してるから。
続編へのネガティブな気持ちはこれに付随する。前に書いたとおり、局長のいない世界を目の当たりにするのが怖い。しかしこれは新選組!という作品に係るものでない。
だから、「局長のいない世界としての続編」を観るのは怖いけれど、「新選組!という作品としての続編」はすっげー楽しみだし絶対観るし観るまで死ねない。
気持ちが矛盾する要因は、このあたりにある気がする。
とにかく「局長の死を真正面からぶつかって受け入れる」な。気持ちを逸らしてはイカン。なんせ半年しかない。
いや、これは半年でどうこうなるものでなく、年単位で見るべき課題(経験上…)なのだけど、とにかく三谷さんおっしゃるところの「最高のプレゼント」をちゃんと受け取れるとこまでにはいっときたい。
あ、気持ちを逸らさないのは、半年しかないからじゃなくて、新選組!という作品が好きだから。わたしは新選組!を思う存分楽しみたいから。逸らさないったって、具体的に何か方法が浮かんでるわけではないけど。
はっきり言って自分は「局長さえよかったらあとはどーでもいいファン」に思われたくないですよ。そのようなことをもし言われたら、怒りというパワーで反論しますよ。それくらいは好きだから。
今わたしは、「作品の中の登場人物」でない「一人の人間」として局長の死をかなしんでる。超内面で右往左往中。外のことは考えられない。考えたとしても、切実でない。だから、今現在の続編へのネガティブな気持ちも、極めて私的なことであって、外のことでない。
とりあえずこれが今の結論です。毎日同じことを言ってるような気もしますが、書いてる人間の心境は結構動いているつもり。でもというか、だからというか、明日のことは分からない。まったく別のことを言うかもしれない。